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東京地方裁判所 昭和32年(ワ)2492号 判決

原告 小林信吉

被告 小田末平

主文

被告は、原告に対し金三万三千円を支払え。

原告その余の請求を棄却する。

訴訟費用は、全部原告の負担とする。

この判決は、原告勝訴の部分に限り仮に執行することができる。

事実

原告訴訟代理人は、「被告は原告に対し別紙目録記載の建物の内階下の向つて右側間口十三尺五寸、奥行三十八尺の部分を明渡し、昭和三十二年三月一日以降右明渡ずみに至るまで一カ月金三万円の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決および仮執行の宣言を求め、その請求の原因として

一、原告は、昭和三十年十月二十四日別紙目録記載の建物(以下本件建物という。)の内請求の趣旨第一項に掲げる部分(以下本件店舗という。)を店舗に使用せしめる目的で被告に賃貸(この契約について同年十二月九日作成された公正証書においては、本件店舗の坪数は十二坪と表示された。)した。その契約条項の要旨は、(一)賃貸借の期間は昭和三十年十月二十四日より昭和三十五年十月二十四日までとすること、(二)賃料は昭和三十年十月二十四日より昭和三十一年三月末日までは一カ月金二万円、その後は一カ月金三万円とし、毎月末日限り支払うこと、(三)賃貸人の書面による承諾なしに賃借人は賃借物およびその造作等の原状を変更しないこと、(四)賃借人が契約条項に違背したときは賃貸人は催告を要することなく賃貸借契約を解除することができることというにあつた。

二、しかるに被告は、何ら原告の承諾を得ることなく昭和三十二年二月二十三日頃から、本件店舗の改造工事に着手し、本件店舗内の造作を解体し、床を四尺ほど掘り下げて半地下室を造り、本件建物の基礎を露出せしめたのみでなく、中二階を造るため梁を渡し、床を張る等本件店舗の構造を一変させようとするに至り、これを阻止するため原告が東京地方裁判所に申請して得た右工事の禁止を命ずる仮処分決定の執行を同年三月九日したことをも無視して、工事を進行せしめた。

三、そこで原告は、同年四月二日内容証明郵便をもつて、被告に対し右無断改造工事を理由として本件店舗の賃貸借契約を前記契約条項(四)により解除する旨の意思表示を発し、右意思表示は翌三日被告に到達したので、右賃貸借契約はここに解除されるに至つた。それにもかかわらず、被告は、契約解除による本件店舗の明渡義務の履行を怠り依然本件店舗を占有している。

四、よつて原告は、被告に対し、本件店舗の明渡ならびに被告の未払にかかる昭和三十二年三月一日から同年四月三日までの間における一カ月金三万円の割合による本件店舗の約定賃料および昭和三十二年四月四日から右明渡ずみに至るまでの間における右と同じ割合による明渡義務不履行に基く損害金の支払を求める。

と述べ、

被告の主張に対し、

一、原告は、被告が本件店舗の改造工事をするについて明示の承諾はもちろん黙示の承諾をも与えたことはない。原告は、昭和三十二年二月十六日被告から本件店舗に改造を加えたいとして承諾を求められたのに対して、床下を掘下げると建物の基礎が危くなるし、かつその掘下げについては地主の承諾を得る必要もあることを理由に承諾を与えることを拒否したのである。被告は、原告が一旦改造工事について被告に承諾を与えておきながら、後になつて地下の掘下げに関して一坪当り金三万円の権利金の支払を要求した旨主張しているけれども、著しく事実に反する。原告は、右の如く被告から承諾を求められた際に、仮に承諾を与えるにしても、将来賃貸借契約の終了に伴い被告が本件店舗を明渡す場合の原状回復費として被告の主張しているような金額を前払してもらいたいと要求したに過ぎないのであるが、被告は、原告のこの要求に応じなかつたのである。更に被告は、原告が仮処分の執行をするまで被告の施行した工事に異議を唱えなかつたとして、原告が右工事につき黙示の承諾を与えたというけれども、事実はそれと正反対で、被告は、原告の工事差止要求を無視して工事を進行せしめたので、原告は、やむなく工事禁止の仮処分を執行したのであつて、黙示の承諾を与えることのあり得よう筈がない。

二、本件店舗賃貸借契約における前記条項(三)は、口頭による承諾のみでは後日承諾の存否について争いの発生することが多いことに鑑み、かかることを避けるため、特に右の如き条項を定めたのであつて、決して被告の主張する如く例文ではない。被告は、本件店舗の賃貸借契約締結当時被告のした工事について原告の書面による承諾を必要としなかつた事実をとらえて、右条項を例文とみる一の根拠にしているが、原告としては、右工事が被告において本件店舗を賃借してそこで営業を開始するのに必要なものと認めて特に異議をさしはさまなかつただけで、かかる工事とその後に被告がした改造工事とは同日に論ぜられるべきものではなく、しかも右賃貸借契約につきその締結後昭和三十二年十二月九日に前記条項を含む公正証書を作成して、書面による承諾を得ないで賃借物およびその造作等の原状を変更することを禁止する旨を特に明確にした経緯に照らしても、被告のいう右のような事実があつたからといつて、これをもつて前記条項を例文とみる理由とするには当らない。

と述べ、

立証として、甲第一号証乃至同第三号証、同第四号証の一、二、同第五号証、同第六号証の一乃至三、同第七号証を提出し、甲第三号証は昭和三十二年三月九日訴外富田政士が本件店舗の正面およびその内部を撮影した写真であり、甲第五号証は原告の作成にかかる改造前と後における本件店舗の平面図であると説明し、証人小林梅子の証言および原告本人尋問の結果を援用し、乙第三号証が被告の主張するような設計図であることおよび同第六号証の成立は認めるが、その他の乙号各証中同第四号証の三以外のものの成立および同第四号証の三が被告の主張するような図面であることは不知と述べた。

被告訴訟代理人は、「原告の請求を棄却する。」との判決を求め、答弁として、

一、被告が原告主張の日時に本件店舗を原告から原告主張のような条項により(但し、原告主張の(三)の条項がいわゆる例文に過ぎないことは、後述するとおりである。)賃借したこと、被告が本件店舗に改造工事を施したこと(その具体的内容は、後述するとおりである。)、被告が原告から原告主張の日時原告主張のような仮処分の執行を受けたこと、原告から被告に対して発した原告主張の如き賃貸借契約解除の意思表示が原告主張の日時被告に到達したこと、被告が本件店舗を現在も占有していること、被告が原告に対し昭和三十二年三月一日から同年四月三日までの本件店舗の約定賃料を支払つていないことは、いずれも認めるが、その他の事実は否認する。

二、被告は本件店舗の床下を約四尺掘下げて約五坪の地下室と中二階を新設し、中二階への出入口を本件建物の二階にある原告の住居に通ずる階段わきに設置する改造工事を計画し、昭和三十二年二月十六日かねてその改造工事の設計を依頼していた訴外三田村建設工業株式会社の工事主任西村叡を同伴して原告を訪ね、原告に対し設計図を示し、改造工事の説明をしてその承諾を求めたところ、原告は、被告の予定していた改造工事のうち、新設の中二階への出入口の設置箇所を別の場所に変更すること、床下の掘下げに備えるための本件建物の基礎に対する補強工作については、工事を施行する訴外三田村建設工業株式会社において十分責任をもつこと、被告は、後日本件店舗を明渡す場合に、原告に対し右改造工事の費用につき一切償還請求をせず、その時の現状のままで明渡をすることを条件として、被告の改造工事に承諾を与える旨答えたので、被告は、原告の提案に同意し、それに伴う設計変更を終えた上、同月十八日訴外三田村建設工業株式会社と改造工事につき請負契約を締結し、原告にあらかじめ通知した翌十九日から右請負人は工事に着手したのである。工事中原告は、一日数回現場を通行し、工事の進行状況を常に目撃していたのであるが、もとより何ら異議を述べなかつたし、床下の掘下げ工事により本件建物の基礎の一部が露出した際には、その部分を避けて掘下げをするように注意したので、それに従つて掘下げ予定の坪数が縮少されたのである。ところが、原告は、同月二十五日頃突然被告に対し、建物の賃借人が地下を利用する場合には、賃貸人において賃借人から権利金を徴収するのが世間のならわしであると聞いたから、被告も原告に対し地下の掘下げにつき一坪当り金三万円の割合で権利金を支払うよう要求して来た。被告としては、本件建物を賃借する際に既に金六十万円の権利金を原告に支払ずみであるし、また一旦異議なく被告の改造工事に承諾を与えておきながら、被告の弱身につけ込んだような原告のかかる要求には応ずる必要はないと考えたが、徒らに原告と事を構えることの不利を慮つて、同年三月八日原告不在のためその妻に対し原告の要求する権利金を六回に分割して毎月の賃料と共に支払う旨返答しておいたところ、その後原告からは改めて何の申出もなかつた。ところが原告は、同月九日不意に被告に対し前記改造工事禁止の仮処分を執行し、引き続き同年四月三日被告に対し原告主張の如く賃貸借契約解除の意思表示をして来たのである。なお、原告は、被告が仮処分の執行後もこれを無視して工事を続行したと主張するけれども、さような事実はなく、ただ工事請負人が特に許可を受けて、工事の中断により生ずべき危険防止のために緊急やむを得ない工事を施したことがあるに止まるのである。叙上の如く被告は、本件店舗に改造工事を加えるに当り、原告から明示の承諾を得て、仮にその事実が認められないとしても、少くとも黙示の承諾を得て、これを施工したのである。さて本件店舗の賃貸借契約について作成された公正証書の中には、賃借人は賃貸人の書面による承諾がなければ賃借物およびその造作等の原状を変更してはならない旨の条項が記載されているけれども、右条項は、これについて当事者間で何ら協議されるところもなく、公正証書の文案として印刷されている条項がそのまま利用されて挿入されたに過ぎないばかりでなく、被告が賃借した当時本件店舗は、造作も何も取付けられていない建て放しのままのものであつたのを、被告においてレストラン営業に適するように金六十万円の費用を投じて、造作を附加し、ガス、水道および電気設備を施したほか、床下を一尺余り掘下げて改装する等の工事をしたのであるが、この工事については特に原告から書面による承諾を得なかつたけれども、それが問題となつたことはかつてないのであつて、これらの点からみて前記条項はいわゆる例文であることが明らかである。従つて前叙のとおり書面によらないとはいえ、被告が原告から明示または少くとも黙示の承諾を得て施行した前記改造工事が本件店舗の賃貸借契約についての解除原因となり得ないことは当然である。

と述べ、

立証として乙第一号証乃至第三号証、同第四号証の一乃至三、同第五号証乃至同第八号証を提出し、乙第三号証は本件店舗の改造工事についての最初の設計図であり、同第四号証の三は原告の要求を容れて右設計を変更したについての図面でありいずれも訴外三田村建設工業株式会社が作成したもの、同第七号証は被告および被告の妻小田田鶴子の記入したもの、同第八号証は被告の記入したものであると説明し、証人西村および同小田田鶴子の各証言ならびに被告本人尋問の結果を援用し、甲第三号証および同第五号証を除く甲号各証はその成立を認める、甲第三号証が本件店舗の正面およびその内部の写真であることは認めるけれども、その撮影年月日および撮影者が原告主張のとおりであることは不知、同第五号証が原告主張のような図面であることは不知と述べた。

理由

一、原告が昭和三十年十月二十四日本件店舗を、店舗に使用せしめる目的で、被告に原告主張のような約定により(但し、原告の主張する契約条項のうち、賃貸人の書面による承諾なしに賃借人は賃借物およびその造作等の原状を変更しないとの条項がいわゆる例文に過ぎないかどうかの点は、しばらく措く。)賃貸したこと、その後被告がその具体的内容はともかくとして本件店舗に対する改造工事をなし、原告から昭和三十二年三月九日原告主張のような工事禁止の仮処分の執行を受けた後にも若干の工事を進行した(その詳細については、ここでは論外とする。)ことおよび原告から被告に対して発した原告主張のような本件店舗についての賃貸借契約の解除の意思表示が同年四月三日被告に到達したことは、いずれも当事者間に争いがない。

二、そこで被告が右改造工事をするについて、原告の適式な承諾を得たかどうかの点について判断する。

(一)  証人西村叡の証言によつて本件店舗の改造工事についての最初の設計図であることが認められる乙第三号証、同じく成立の真正を認め得る乙第四号証の一、二、同じく乙第三号証の設計を変更した図面であることが認められる乙第四号証の三および証人小田田鶴子の証言によつて真正に成立したと認められる乙第七、八号証と右各証言および被告本人尋問の結果とを総合すると、被告は、原告から賃借した本件店舗においてレストラン営業を経営していたのであるが、本件店舗には冷房装置がないため、昭和三十一年の夏約三カ月間は顧客が少く営業が不振であつたので、被告は、その打開策として冷風機を使用して本件店舗の客室を冷房する方法を採ることが必要であると考えるに至つたのであるが、その方法で冷房効果を上げるためには、客室を調理場から分離しなければならず、それについては本件店舗に地下室と中二階を造るほかなかつた。そこで被告は、同年十一月頃訴外三田村建設工業株式会社にその工事の見積をさせる一方、工事の施行について原告の承諾を得るべく、原告と幾度か話合いを続けている間に右工事の設計図ができて来たので、昭和三十二年二月十六日訴外三田村建設工業株式会社で設計および現場監督の業務を担当し、右設計図の作成に当つた訴外西村叡と共に原告方を訪ね、西村叡をして原告に対し、右設計図を示して被告の計画する改造工事の説明をさせ、その工事につき原告の承諾を求めたところ、原告は、右設計によると、地下室を造るために五坪ばかり床下を掘下げることになつているが、かくては本件建物の基礎を弱めるおそれがあり、また新設の中二階への出入口を、原告が本件建物の二階において経営している撞球場へ通ずる階段のわきに設けることにしているので、両者の出入口の戸が共通になることになるからとの理由で、工事の施行に対して難色を示した。これに対し西村叡は、技術的にみて被告の所期する程度の床下の掘下げによつて本件建物の基礎が危くなることはないと確信するが、もし万一そのようなことが起つた場合には、工事施行者において十分な補強工事をして危険のないようにすることにつき全責任を持つと保障したほか、被告もそのような補強工事が必要となつたときには、その費用その他について一切原告に迷惑はかけない旨言明し、また中二階への出入口および階段の設置箇所については原告の要望に副うよう設計を変更し、かつ右のような設計の変更に伴い床下の掘下げ面積を幾分縮少することにしたので、原告もようやく納得し、結局、被告が本件店舗を明渡すときには、その時の現状のままで明渡をなし、かつ原告に対し改造工事費用の償還その他如何なる名目ででも一切金銭上の請求をしないことを条件として、右改造工事の施行について承諾を与えたのである。よつて被告は、同月十七日限り営業を休止して、同月十八日訴外三田村建設工業株式会社と右改造工事につき請負契約を締結し、訴外三田村建設工業株式会社は、同月十九日から工事に着手するに至つたものである。ところが床下の掘下げ工事が予定の深さに達しないうちに同月二十三、四日頃建物の基礎が露出し、原告から注意があつたので、掘下げ予定面積を更に縮少して工事を続行した。しかるに同月二十七日頃になつて原告から被告に対し、建物の賃借人が賃借建物に地下室を造るため床下を掘下げるような場合には、賃貸人から一坪当り金三万円程度の権利金の支払を賃借人に請求するのが世間一般のならわしであると聞いたからといつて、被告にその支払を要求した。被告は本件店舗を原告から賃借した際既に金六十万円の権利金を支払い、かつ造作その他の工事のために相当な費用を支出しているし、また前記改造工事につき原告の承諾を得るべく原告と交渉した際に、最初原告が工事の施行に難色を示したので、被告からもし金銭上の要求があるのならはつきり申出てもらいたいと念を押したのに対して、原告は、建物の基礎が危くなることのみが心配なのであり、金銭の問題ではないと言明しており、その不安を解消して一旦被告の工事施行に対し承諾を与えておきながら、工事が半ば進行した頃になつて突如として権利金を要求するに至つた原告のやり方に被告は不満を感じたが、原告の気嫌を損じては不利であると考え、原告の要求に応じることに決心したけれども、原告の請求する金額を一時に支払う資力がなかつたので、これを六回に分割して本件店舗の賃料と共に六カ月間に支払う旨原告の妻を通じて原告に答えておいた。しかるにその後原告は、先に当事者間に争いのない事実として判示したとおり、被告に対し工事禁止の仮処分を執行し、かつ賃貸借契約解除の意思表示を発するに至つたことが認められ、右認定に反する証人小林梅子の証言および原告本人尋問の結果は措信できず、その他に右認定を左右するに足りる証拠はない。叙上認定事実からするときは、被告は、本件店舗に改造工事を加えるについてあらかじめ昭和三十二年二月十六日原告の口頭による承諾を得たものというべきである。

(二)  しかるに原告と被告との間に締結された本件店舗の賃貸借契約について作成された公正証書に、賃借人は、賃貸人の書面による承諾がなければ賃借物およびその造作等の原状を変更しないこととの条項があることは、当事者間に争いがない。

被告は、右条項は例文であると抗争し、被告本人尋問の結果中には、被告は、右条項に関して公証人から何ら聴取されたことも読聞かされたこともない旨供述している部分があるけれども、成立に争いのない甲第二号証によると、右公正証書は、その作成に立会つた原告および被告に閲覧させる方法によつて作成されたものであることが認められるので、たとえ被告本人の右供述のとおりの事実があつたとしても、直ちに右条項を例文であると解する根拠とはし難い。被告は、本件店舗賃借当時被告がこれに造作を附加し、ガス、水道および電気設備を施し、かつ床下を一尺余り掘下げて改装する等の工事をしたことについては、書面による原告の承諾を得なかつたにかかわらず、そのことに関して原告が被告の責任を追及したことのないことを、右条項の例文であることについての一の根拠とするのであるが、前掲甲第二号証および原告本人尋問の結果によると、右公正証書が作成されたは昭和三十年十二月九日であることが認められ、原被告間の本件店舗賃貸借契約(その締結された日時が同年十月二十四日であることは、先にも判示したとおり当事者間に争いがない。)に右公正証書の作成前から既に右のような条項の約定が存したかどうかは明らかでないのであるが、それはともかくとしても、原告が被告に対して被告が右に主張するような工事をしたことにつき契約違反の責任を追及しなかつたことから直ちに右公正証書に記載された前記条項を例文とみなければならないものではない。

(三)  ところで前出(一)において説示したとおり被告は、原告から口頭による承諾を得たに過ぎないのであるから、ただそれだけでは、前記公正証書に記載された条項にいわゆる書面による原告の承諾を得たとはいえないとして、債務不履行の責に任ずべきものであるかどうかについて考えてみなければならない。証人小林梅子の証言および原告本人尋問の結果によると、右条項は、承諾の有無につき無用の紛争の起ることを避ける目的の下に定められたものであることが認められるので、その趣旨とするところは、原告の承諾があつたことは書面によつてのみ証明することができるものとするもので、いわゆる証拠契約と呼ばれるものに当るというべきである。しかしながらこのような係争事実の確定方法に関する証拠制限の合意は、裁判官に対してその自由な心証にもとづき確信に従つて事実判断をなすことを要求する民事訴訟法第百八十五条の趣旨と矛盾し、無効というべきである。しかも、被告本人尋問の結果によると、原告は、前出(一)において認定したとおり、昭和三十二年二月十六日被告に対し本件店舗の改造工事につき承諾を与えた際、原告が提案し、被告において受諾した条件即ち被告は、本件店舗を明渡すときには、その時の原状のままで明渡をなし、原告に対し改造工事費用の償還その他如何なる名目ででも一切金銭上の請求をしないということについて、被告から原告にその趣旨の書面を差入れるべきことを要求したので、被告は、翌十七日実印をたずさえて、原告の要求する書面を作成すべく原告を訪ねたところ、原告はことさら書面まで作る必要はなかろうと答えたので、遂に書面作成の運びに至らなかつたことが認められ、この認定を動かす証拠はない。してみるともし原告の要求どおりに書面が作成されていたとすれば、たとえ原告の承諾が与えられたことを直接証明する書面ではないにしても、少くともその書面から原告が被告に対して改造工事につき承諾を与えたことを窺い知ること位はでき得た筈であるというべく、この点からいつても、原告において、被告が改造工事につき書面による原告の承諾を得なかつたことを主張して被告の契約違反の責任を云々するのは、著しく信義に反するものというべきである。従つて被告が本件店舗に原告の承諾を得ることなく改造工事を加えたことを理由として原告が被告に対してした賃貸借契約解除の意思表示は、その効力を生じ得ないものといわざるを得ない。

三、原告は、更に、被告が原告から工事禁止の仮処分の執行を受けながら、これを無視して工事を進行せしめた旨主張するのであるが、成立に争いのない甲第六号証の二および証人西村叡の証言によると、被告は、右仮処分の執行を受けた後昭和三十二年三月十六日その点検が行われた際に、本件店舗に戸締りがなく不用心であつたところから、店頭に陳列ケースを据置き、かつ出入口に扉を取付ける等小範囲の設備を施す工事をすることにつき、特に原告の許可を得たので、工事請負人において、出入口に扉を取付け、かつその工事の必要上扉の下に鉄平石を敷いたほか、工事現場に寝泊りする留守番の者のために階段を昇つた附近にベニヤ板を打つて囲いのようなものを造り、また降雨のため地下に溜つた水を排出した以外に、扉の下に鉄平石を敷くに当り、その程度の工事量では一時間も要しないところから、一日分の仕事量にするため地下室にも鉄平石を敷いたことのあることが認められ、この認定を左右する証拠はない。なお、成立に争いのない甲第六号証の三には、昭和三十二年三月二十三日第二回の点検が行われるに当り、その場に居合わせた訴外三田村建設工業株式会社の設計部長西村叡が、被告は原告から許可を受けた工事を施行するについて奥の方もこそこそ目につかないように造作工事を進めてもらいたい旨工事請負人に指示し、その結果叙上認定の工事以外にも電気の配線工事および給配水工事を大体完了させた旨陳述した旨の記載があり、証人西村叡の証言中にも、仮処分執行後同人に対して被告から上記のような指示があつたとの趣旨のものがみられるけれども、被告本人尋問の結果によれば、被告が前記のような工事の続行について許可を受けるに際し、原告の代理人である弁護士田中義之助から、仮処分中のこと故工事は内密にやるようにとの注意を受けたことを訴外西村叡に告げたのが上記のような趣旨に誤解されたものらしく、また電気の配線および給水工事等は、仮処分の執行当時既に完成していたことが認められる。

ところで被告が仮処分の執行を受けた後に続行させた工事は、原告から許可を受けた範囲を若干逸脱したきらいがなくもないが、さりとてこれにより被告が本件店舗の賃借人としての信義に反する行動に出たものとも解されないばかりか、そもそも前記仮処分については本案請求権の存在の認められないことが上述したところから明らかであるので、仮処分執行後になされた工事を理由としても、原告は本件店舗の賃貸借契約を解除することはできないものといわなければならない。

四、さすれば本件店舗の賃貸借契約が解除されたことを前提として、被告に対し本件店舗の明渡およびその明渡義務不履行による賃料相当の損害金の支払を求める原告の請求は、理由がないものといわねばならない。しかしながら被告が昭和三十二年三月一日から同年四月三日までの間における本件店舗の約定賃料(その額が金三万三千円となることは、計算上明らかである。)を原告に支払つていないことは、被告の認めるところであるので、原告の本訴請求中被告に対しその支払を求める部分は正当とすべきである。

五、よつて訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九十二条を、仮執行の宣言につき同法第百九十六条を適用し、主文のとおり判決する。

(裁判官 桑原正憲)

目録

東京都台東区仲御徒町二丁目五十六番地

家屋番号同町五十六番二

鉄筋ブロツク造二階建店舗一棟建坪延五十八坪

公簿上木造ルーフイング葺二階建店舗一棟建坪二十五坪八勺 二階七坪

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